貝島百合野山荘市民の会  スマホに本HP取付
       
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 ◆山荘に関するマスコミ・新聞掲載ページを設置  ◆令和6年度「山荘見学会」11月16・17日開催  ◆第7回(令和6年度)総会報告発信   
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「貝島百合野山荘市民の会」設立趣旨
 左図の▶をクリック・タップすると、
                   「設立趣旨」を音声で聴けます。

 
 近時、明治日本の産業遺産が世界遺産に登録されたのを機に、炭鉱設備等を含めた明治日本の産業遺産群が更に脚光を浴びています。

 そのような中、地元で栄えた貝島炭礦
*1は、明治18年、貝島太助翁を中心にした兄弟たちの英知と艱難辛苦の努力によって*2、旧宮田町から創業発展し、筑豊・佐賀等に貝島財閥と目されつつ世に大きく貢献した過去の大切な歴史があります。例えば、宮若市や直方市が現在の自治体としての基盤を形成し、北九州が一大工業地帯として発展し、現在の自動車産業の隆盛を見た基礎の一端は、貝島炭礦が担った結果であるともいえます。(*2「偉盲貝島嘉蔵翁」(吉村誠著)にその段の記載があります)

 しかし、その巨大な足跡は、殆ど宮若市、また、市外にも見ることができません。特にこの宮若市には、貝島百合野山荘(この頁では、以下「山荘」とします)以外は形を留めていないようです。
 
 ここで、取り敢えず山荘の存在価値を大きく3点紹介します。

 ①    貝島炭礦は、日本の産業・工業を支えた。その跡を留めるのがこの山荘であるということ。 
     
 ②   山荘の屋敷は、建築に書院造り等を取り入れ、そして当時隆盛を誇った炭礦主の典型的な佇まい、更に庭園、遊歩道や慰霊塔を備え、外来者や炭礦の坑夫への温かい思いやりの姿を有しているということ。
     
 ③   ときの日本発展の礎となった大政治家の井上馨*3と深い繋がり・ロマンがあったこと。 
     
                *3  貝島太助との詳しい繋がりは
             ◆HP「貝島太助物語」の第五章一と二(福田康生著)を是非ご参照ください。

 したがいまして、貝島百合野山荘は、90年有余の歴史を残した貝島炭礦の象徴・シンボルとして位置づけたい考えました。

 そこで、当山荘の保存と活用を求めて活動するがために、平成28年に、ときの有志によって当会を設立し、今では千数百名の会員が集う会に至っています。
 
 現在、国の重要文化財指定受けるために鋭意努力しているところです。

 以上、皆様のご理解とご支援を賜りたく、設立の趣旨とします。

                          令和6年8月吉日

            貝島百合野山荘の保存と活用を考える市民の会
                       (貝島百合野山荘市民の会)

*1 貝島炭礦の場合の「こう」の漢字は、会社名が貝島炭礦でしたので「礦」を使い、一般的な「たんこう」の場合は、鉱を用いています。
 狭い意味の「たんこう」の場合は、炭坑、坑夫、坑口のように「坑」を使っています。(本HP担当)

 




貝島百合野山荘とは
 左図の▶をクリック・タップすると、
                   「貝島百合野山荘とは」を音声で聴けます。

炭鉱経営で筑豊御三家の一つとされた貝島炭鉱創業者(貝島太助)一族の貝島六太郎(貝島太助の次弟)旧邸「貝島百合野山荘」は、完成から100年余の時を経て地元に残る貴重な炭鉱遺産といわれています。

 貝島六太郎は、男の子が生まれなかったので、明治37年、早々と養嗣子(ようしし、
民法旧規定のもとで家督相続人となる養子のこと。)の栄四郎氏(太助の次男)に家督を譲り、百合野(現山荘の敷地)に隠居しました。
 その後、貝島百合野山荘は、貝島家家憲制定後、その家憲に基づいた「邸宅建築規定」によって、貝島栄四郎氏の本宅として明治末に設計建築がはじまり、完成は大正4年でした。

 当初の所有者は、貝島栄四郎氏でしたが、現在は、その子孫である貝島化学工業社長 貝島義朗氏(
参照:本ページの貝島家系統図)です。

 建物は、木造一部2階建てで東西に長く広がります。同社の「貝島百合野山荘調査・分析スタッフの会」(岩田憲明代表)によりますと、1915年(大正4年)に完成し、住宅として使われた建物、それに茶室や茶庭を備え、地域や一族のための応接機能を持った建物とが共存します。宅地は約1万7700平方メートルで、約9万平方メートルの敷地を持ちます。

 通用門の「毛利門」(
下写真:家憲制定前に、井上馨侯爵の計らいによって、旧主家の邸第にあった門をもらい受けて移築)から入った玄関前や回遊式庭園の主庭などでは紅葉が楽しめ、散策路ともなる梅園や竹林のほか、鳥居と一対のこま犬を備えた社跡や仏碑、貝島炭鉱の主力だった大之浦炭鉱(宮若市)などを望んだ展望所跡があります。

 当スタッフの会は「自然の地形をそのまま利用し、建物の建築から造園まで多くの匠(たくみ)の技を統合し、和風の技法に西洋技術を取り入れた山荘であります。貝島家の多機能住宅施設として歴史的価値は高い」とみています。県も近代和風建築の総合調査の一環で基礎調査を終えています。
 
 貝島製作所元代表取締役で「貝島百合野山荘の保存と活用を考える市民の会」(貝島百合野山荘市民の会)の筌場弘則さんは「石炭産業の隆々とした時代がしのばれる。ぜひ保存し、炭鉱の歴史とともに残してほしい」と訴えています。同会会長の原田正彦さんは「貝島家の建物で地元に現存するのは百合野山荘だけ。建物も庭も壮大で、感動した。保存に向け、さらに市や市民にアピールしていきたい」と話しています。  
                           
 そこで、数年前から立ち上げた「貝島百合野山荘市民の会」は、現在1,300名を超える会員とともに、鋭意、当山荘の保存と活用を求めて活動を行っています。

 詳しくは、本HPをご参照ください。
      
           (以上 2018/11/29付 西日本新聞朝刊を参考に編集)

〈参考〉 貝島炭礦歴代社長名
 代 社長名 期間    備考 
明治17年(1885年)4月 貝島六太郎名義により「大之浦炭坑の土地取得
    1885年11月3日~  M18 大之浦開坑
  (代表者)
貝島 太助 
1889年3月1日~  M21 榮鑛社設立
   〃? 1892年8月20日~  M24 榮鑛社解散 3/3 井上馨来邸
    (毛利三井援助する)
貝島 太助 1898年5月15日~  M31 貝島鉱業合名会社
一代目 貝島 太助 1909年12月1日~1916年11月   M42 貝島鉱業株式会社設立 資本金250万円
   貝島太助逝去(1916/11/1 72歳)
二代目  貝島栄四朗 1916年11月29日~1931年8月   T5 太助(長男)の次弟(三男) 貝島炭礦(1931) 
常務 貝島健次、貝島太市
三代目  貝島 健次 1919年10月18日~  T8  
四代目  貝島栄四朗 1921年2月1日~  T10  
五代目  貝島 太市 1931年8月3日~1943年6月   S6 太助の四男 貝島炭礦㈱
六代目   貝島 義之 1943年6月18日~1945年10月   S18 太助の次男(栄四郎)の息子 会長:太市 
七代目   貝島 太市 1945年10月1日~1963年5月(8月逝去)  S20 再任 
八代目  貝島 弘人 1963年5月28日~1976年5月(昭和51年)  S38 昭和51年8月閉山 
 弘人:太市の娘婿(養子)
       参考資料:宮若石炭記念館 貝島炭礦略年誌(稿本)より筌場弘則氏抜粋提供・編集
                                   


                   貝島家家系図から藤渕明宏作成


    <貝島炭礦主な沿革>
 年  月 西暦 沿            革 
 明治17年4月  1884  福岡県宮田村上大隈で炭坑の坑区購入
 明治18年4月  1885  大之浦炭坑と称する採掘許可を得る
 明治18年11月3日  1885  大之浦竪坑開掘着手 会議で開坑決議 のちに創立記念日
 明治21年3月1日 1889  榮鑛社設立
 明治24年8月20日 1892  榮鑛社解散
 明治31年5月  1898  貝島鉱業合名会社を設立
 明治42年12月  1909  貝島鉱業株式会社設立。資本金250万円
 大正8年11月  1919  貝島商業株式会社設立。資本金1000万円
 大正10年2月  1921  大辻岩屋炭礦株式会社設立。資本金1000万円
 昭和6年8月  1931  貝島商業株式会社、大辻岩屋炭礦株式会社を吸収
 合併。資本金3000万円
 昭和6年8月  1931  貝島炭礦株式会社に商号変更
 昭和23年8月  1948  大辻炭礦と岩屋炭礦を高倉鉱業株式会社に譲渡
 昭和38年4月  1963  満之浦炭礦株式会社を設立
 昭和38年10月  1963  第二大之浦炭礦株式会社、菅牟田炭礦株式会社を
 設立
 昭和41年11月  1966  大之浦炭礦株式会社を設立
 昭和51年8月  1976  閉山
     参考資料:「企業情報@Wiki」 「貝島会社歴史年表」(福田康生著)など
                   不確定部分多し。現在追究中

         
貝島会社本社所在地推移 
 年 所在地等 
創立時  直方
1920年  長府(空襲にて消失、社長宅へ) 
1945年  旧宮田町 大之浦本社 福岡市平尾に事務所 
1946年  福岡市荒戸128 
 ?  福岡市天神協和ビル 
 
上大隈にあった本社(上方の長屋根の建物)
 
長府本社 宮若石炭記念館より)
その左奥隣は旧英国領事館(現存中)

参考資料:宮若石炭記念館 貝島炭礦略年誌(稿本)より筌場弘則氏抜粋提供



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百合野山荘の価値判断資料について、
主な3つの視点(規模・庭園・建造物)を
以下に示しましょう。
終わりに「まとめ」「保存と活用」のあり方をまとめています。
参考資料:第7回総会講演(辻 浩史氏)から編集
以上の詳細は、本HP「辻浩史氏講演記録」をご覧ください。

       当山荘の文化財指定に向けて
      
~~~~~~~~~~~~~
        ①庭園敷地・建物の規模
        ②庭園
        ③建造物

        ◇文化財価値のまとめ
         
     ※百合野山荘の保存と活用の在り方


この図表①は百合野大きな特徴である規模についての比較です。

①左の大きな緑の敷地が百合野、敷地面積27,000坪で圧倒的な広さを誇ります。
 右はこの報告書でも取り上げていますほかの炭礦経営者の庭園です。
 上から旧伊藤伝右衛門邸、旧蔵内邸、そして唐津の旧高取邸です。
 ご覧のように、ほかは2,000~3,000坪といわゆる「庭園」のみの敷地です。
 建物も4つの蔵と合わせ514坪と大きく他を凌駕しています 

②本庭園に見られる、広大な敷地とここから眺望される景観は、「筑豊」の風土そのものであり、接遇と日常生活空間を複合した雄大なランドスケープ空間としての構成が、近代庭園として文化財的価値を評価しています。

③建造物の文化財的価値評価は、その平面構成が明確で、動線も明快であり、一気の建設され計画性が優れています。
 室内意匠は控えめですが、端正な造りを志向した結果、ほかの住宅とは、質的に異なる表現の邸宅となりました。
 また、建設時の資料も多数残されその資料からも住宅の価値評価ができる稀有な存在です。

 ◇百合野山荘の庭園・建造物の文化財的価値をまとめますと
 1)貝島炭礦と数多くの貝島家住宅の中で、本拠地である  旧宮田町に、建設時のまま唯一残る炭鉱遺産である。 
 2)炭礦経営者住宅の中でも、最も広大な敷地を活用し、その生活環境が分かり、特に住宅はその明快な平面構成と匠の技が、近代和風建築として完成された文化財です。
 3)庭園・建物とも圧倒的規模で、大正5年に一気に新築完成し、建設時の資料が数多く残る貴重な住宅です。

※保存と活用  まず名勝指定に関するスケジュールが見えてきた段階で
1)今までの委員の方を含めた「保存・活用委員会」を設立して、補助金を活用を考慮しながら、復元整備・将来構想・運用などの「保存・活用計画書」を作ります。
  それには所有者だけではなく、専門家及び広く地域の皆さんや筑豊の他の自治体にも協力いただき、ご意見等を反映し魅力ある計画書とします。
2)合わせて法人化を含めた、運用・管理体制も検討します。
 そして名勝指定後は、公開が条件になりますので保存・活用計画の実施策を、短・中・長期に分けて復元保存と活用施設を整備していきます。
 また、法人化は、次の住宅の重要文化財指定をにらみ、所有形態と運営を体制を決定します。
 こうしたことからも、今後ますます市民の会に皆様の支援が必要です。



本HP制作:貝島百合野山荘市民の会「情報発信・広報部会」
部員:藤渕 田中 真角 小方 山本 浅井 

TEL:0949-36-3224
FAX:0949-36-3224
Email:minghongt47@gmail.com

   

                 背景画像:貝島百合野山荘敷地全景(田上稔氏提供)