貝島炭礦の偉大な社会貢献

 はじめに

 近時、明治日本の産業遺産が世界遺産に登録されたのを機に、炭鉱設備等を含めた明治日本の産業遺産群が脚光を浴びている。そのような中、地元で栄えた貝島炭砿を考えてみたい。
 貝島炭砿は、貝島太助翁を中心にした兄弟たちの英知と艱難辛苦の努力によって創業発展し、貝島財閥と目されつつ世に大きく貢献した過去の大切な歴史がある。当宮若市や直方市が現在の自治体としての基盤を形成し、北九州が一大工業地帯として発展し現在の自動車産業の隆盛を見た基礎の一端は、貝島炭砿が担った結果であるともいえる。
 嘗て国定教科書にも記述された(8項、出炭量の項参照)貝島炭砿の各種社会貢献についてその概略を以下に記述する※1が、主な出典は宮田町誌を中心に参考としたものである。特に宮田町誌上下二巻のうち、下巻のほとんど※2は貝島炭砿関係の記述内容で占められており、この一事を見ても貝島炭砿の社会や地域への影響とその貢献ぶりが十分にうかがわれる。
  よって、貝島百合野山荘は、その象徴・シンボルとして位置づけていき、見学等の機会に大いに強調していきたい。 皆様のご理解を賜りたく、ここにその一端として提示する。
注※1)本稿の記述内容・項目:
注※2) 全記述1,550頁中 貝島関連記述978頁・・・(貝島炭砿関連の項目以外で散見される部分を含まず)
尚、以下文中のP・・は、畠中茂朗著「貝島炭砿の盛衰と経営戦略」中の記載ページを示す。
 
 
1、学校教育関連での社会貢献

1)私立学校の設立と上級校設置
 1872(明治5)年の学制公布以降も、一般社会では学校(義務)教育が普及していなかった時代(義務を強制しない・・・罰則なし)にあって、積極経営投資で負債山積の中にもかかわらず、教育の必要重大性に着目した貝島太助は、炭砿従業員子弟のための学校を設立し、優秀な教員を指導者として迎え、次代の人材育成教育に尽力した。(写真 満之浦小学校運動会 昭和7年)
 その私立学校の設立状況は次のとおりであるが、当時の公立小学校は有償であったにもかかわらず無償
※1で、逆に教科書や教材衣服類のほか当初は手当てまでも支給しての実施であった。
 それはまた、全国を通じて鉱業界に児童教育の私立学校を設立した嚆矢となった。

1888(明治21)年  貝島大之浦小学校設立 
 のちに貝島大之浦第一尋常高等小学校、貝島大之浦第一学校と改称※2
1900(明治33)年  貝島満之浦小学校設立
 のちに貝島大之浦第三尋常高等小学校、貝島大之浦第三学校と改称※2
1912(明治45)年  貝島徒弟養成所設立
1915(大正 4)年  貝島岩屋小学校設立、貝島岩屋学校と改称※2
1916(大正 5)年  貝島菅牟田小学校設立、貝島大之浦第二学校と改称※2
のちに貝島大之浦第二尋常高等小学校、貝島菅牟田学校と改称
1917(大正 6)年  貝島大辻小学校設立、貝島大辻学校と改称※2
1937(昭和12)年  貝島庄司教養所設立
1939(昭和14)年  貝島技術員養成所設立
1948(昭和23)年  貝島技術学校設立
1953(昭和28)年  貝島准看護婦養成所設立
注※1)1900(明治33)年第3次学校令によりそれ以降は公立小学校も無償となった。
注※2)昭和16年の国民学校令時の改称

○参考1) 貝島私立学校の卒業生:尋常科19,798名、高等科 5,989名、計 25,787名
○参考2)大之浦小学校 自箴
   ・うつし世のなやみを折によそにして 
       無限に触れよ 永劫を見よ
   ・左右傾くなかれ おほいなる
       道は真中に 日はおほぞらに
   ・すぎ去りし昨日の夢を遂ふなかれ
       われの勤めは 今日と明日とに

◎ 公立移管時の貢献
 昭和23年の国の学制改革に伴い、上記全小学校は公立学校として各自治体に無償にて移管された。新制中学校の発足をうけ大之浦中学校等の学校設備一式の新設や、移管にあたり各学校に対して多額の寄付金を拠出した(一例200万円)うえ、昭和30年までに発生する維持費用も負担した。また宮田町立南小学校や北小学校の講堂も寄付している。

◎上級校設置の貢献
 なお、公立上級学校設立にあたっても、旧制鞍手中学校(現鞍手高校)の誘致運動に積極的に行動を起こして実現を見ており、また旧制直方高女(現直方高校)誘致運動を中心的な立場で展開した結果成功し、その開設実現時には土地提供を含め、多額の寄付を行った。
(総予算52,000円を県と筑豊5郡が出資したが、貝島太助個人で6,000円を拠出)
 筑豊鉱山学校の設備増強、福岡工業学校(現福岡工業高校)の採鉱科設置も実現させている。

2)奨学金関係(返還不要の支給制)
 貝島育英会
 私立小学校の設立にとどまらず、子弟の中には学費を給与されて上級各種専門学校に学ぶ者もいたが、大正6年からはこれを制度化し従業員子弟中の学資乏しきものに対して、全額を支給する事になった。更に大正13年からは卒業後に貝島就職の義務化を外して、貝島育英会として従業員子弟のみならず、広く一般に公開して人材の育成に力を注ぐこととなりその実績を上げた。
 貝島育英会は、奨学金の返還を求めない無償支給の画期的な制度であり、福岡県では黒田奨学金とともに国内でも数少ない奨学金制度であった。
 なお、貝島炭砿終焉の後の現在も、貝島化学工業㈱殿および㈱シェル・エンタープライズ殿のご尽力によって継続進行中であり、往時の精神を引き継ぎ実施されている事は、厳しい経済状況の中において誠に敬服すべきことである。


2、寄付金関係での貢献(明治大正時代の記録をもとに)
1)直方地区・・・当時 本社所在地
 警察署、学校関係、神社・仏閣 等への建設費:76,876円 うち圓徳寺建立費:55,000円
2)宮田地区
 役場、病院、学校、神社、河川  改修等 :22,700円
 うち倉久川改修費:19,400円
3)その他地区
  大学、警察署、学校、神社等 17,000円(早稲田大学、慶応大学、飯塚警察署等)
・・・(以上 圓徳寺資料による)
○大正昭和以降も自治体・学校(含福岡盲唖学校)・保護施設等の公共施設神社仏閣等多方面に多額の寄付をしているし、洞海湾への石炭輸送の大動脈であった堀川が鉄道に代わったのちに記念碑建立、洞海湾浚渫等社会奉仕も行っている。(写真:円徳寺の貝島百合野山荘からの仏壇)
   
 4)久原鉱業㈱(のちに日産の母体となった企業)への援助
  (この項参考は、畠中茂朗著「貝島炭鉱の盛衰と経営戦略」等)
 1912(大正元)年創業の久原鉱業が、1926(昭和元)年に企業存亡の危機に立ち至った時、累積債務の金額約25,000,000円の中で、再建を委嘱された鮎川義介の発議で集まった20,722,159円のうち、14,007,234円の援助を貝島家は無条件にて提供している。これは久原鉱業創立者の久原房之助と貝島太市とは妻同士が姉妹の縁戚関係(鮎川義介と兄弟姉妹の関係)の都合と、また井上馨への恩返しや経営上の問題も関与していたようである。当時貝島太市は久原鉱業の監査役をしていたが、これを機に辞任した。
 貝島家が提供した資産資金により久原鉱業の破産を回避させ、その後久原鉱業を改組した日本産業を中核とする日産コンチェルンへと発展していく端緒になった。


3、医療・病院での貢献・・・・・(鞍手郡医療史を参考)

 1903(明治36)年に菅牟田病院の設置以降、各坑ごとにも病院が開設され1921(大正10)年の改組や変遷を経て、1931(昭和6)年には総合病院として従業員および家族のみならず、一般にも無料に近い費用で開放しての地域医療に尽くした功績は大きいものがあった。鞍手郡医療史によると、「その慈善的な性格は、医療に対する安易な考え方を住民並びに行政に植え付けた点で、今日の医療に重大な影響を与えたことも見逃せない」と記述している。(2000年刊)時代に先駆けてレントゲン科を設置するなど近代的設備を導入し、筑豊地区最大の医療機関であり、貝島閉山に近づくまで、開業医が大変少ない地域であったが、医師一人当たりの人口比も他地域よりも過密であった(当時他地区の医師一人当たり住民2000人に対し、当地では1200人であった)。

1)貝島病院
  以下は、貝島病院に関する鞍手郡医療史の記述の「結語」部からの引用記述である。
  近代医学創成期の頃より始まった貝島病院は、貝島太助の遺志を継いで、一世紀近い年代を、殆んど無料に近い料金で当時の炭鉱労働者およびそれを取り巻く地域社会の医療の中心であった。(写真:貝島病院と竪坑 昭和30年)
  江戸末期より明治初年にわたって一時隆盛を見た鞍手郡内の開業医は徐々に減少し、直方市が誕生してからは昔日の面影を失い、自治体も医療についても安易に貝島病院におんぶされた形であった。
 私企業の貝島病院が地域医療に尽くした功績はまことに偉大なものであり、石炭産業が下火になるにつれて病院の組織も徐々にその規模を縮小していったが、それにつれて町内の開業医も数を増して、現在の第二期開業医時代を迎えているが、地域医療の中心的な存在はまだ発生せず、今後の課題として行政も一般人も医師も共に考えていかなければならないだろう。(現在は宮田病院が開業している。)

2)直方町立病院
  昭和35年5月発行の月刊「直方と鞍手」は、太助翁銅像建立記念号であるがその中で直方町立病院建設とその後の運営にあたっての記事が載っている。
  直方町立病院建設総予算7,000円のうち6,500円を太助翁が提供し、さらに年度ごとの発生赤字も負担されたという。
3)九大のレントゲン科設置の際には、設置費用を寄付している。

4、北九州工業地帯形成への貢献

 北九州工業地帯の後背地として、筑豊炭鉱界をリード※していた貝島が工業地帯形成にも、大きな役割を演じた。発展期日本のエネルギー源としての筑豊の石炭産業に、大手財閥資本の投入操業化を呼ぶ効果も大きかったと思われる。
 注※)貝島太市は1925(昭和元)年、九州における石炭の販売カルテルである甲子会を設立し、三井、三菱、古川、安川、貝島の五社協定を締結し、翌1926年に麻生もこれに入会させた。
 また現在、九州がカーアイランドとなっているが、貝島がその基礎を作るきっかけになっている。これは貝島家が、鮎川義介家との縁戚に連なった事により、戸畑に日立金属の前身である戸畑鋳物㈱など日産系列の工場が立地していた事もあり、これが日産自動車の北九州進出の導火線となり、その後当地にはトヨタ自動車九州をはじめ、九州各地に自動車産業工場や関連企業展開の源流となっている。

5、民生保養関係での貢献
   ○脇田海岸海の家設置
   ○千石山の家設置
   ○所田温泉設置(右写真:令和3年)
   ○良質水道水の水源提供

6、その他貢献

1)軍関係: 飛行機、軍艦の寄贈等多数
  なお、日露戦争の日本海海戦において、大之浦炭火力優秀によりその戦果に貢献大なる旨をもって、元帥東郷平八郎海軍大将からの肉筆感謝状が残されている。

2)旧国鉄宮田線設置関係
 明治34年勝野桐野間に貝島専用の運炭鉄道を設置し、明治35年九州鉄道に譲渡。
  明治37年磯光菅牟田間設置九州鉄道に譲渡。
  これらは明治40年国鉄宮田線として引き継がれJRを経て、地域住民の交通手段として1989(平成元)年まで利用された。


7、朝鮮人労働者による頌徳碑と謝恩碑について

 炭坑では嘗て朝鮮人労働者を強制収容の上、酷使したとの社会一般の風評認識が一般的である中で、貝島炭鉱では全くこれ覆す事実がある。この事を紹介するのも大切であろうと思うので、直接の社会貢献とは言えないが、宮田町誌関連部分から抜粋記述する。

1)頌徳碑
 貝島炭砿㈱は大正六年満之浦炭坑第二坑(大之浦第七坑)に、半島人労働者三十余名を雇い入れたのを手始めに年々その数を増し、昭和四年には労務者二五〇余名、その家族二〇〇余名を算するに至った。
 当時半島人の指揮統禦については特に意を用い、同坑長俵口和一郎氏が自らその衝に当り差別的取り扱いを避け、融和善導を主眼とし、之に知育徳育を課し、更に家族の指導に留意しその内地化に努めた。このために報徳感謝の念を涵養するため報徳会を旺に催し、敬神崇粗と犠牲的精神を培養するため、山神社の建立及び労力奉仕をなさしめ、社会風致の指導に意を用いた。就中将来ある青年教育に意を注ぎ、私立貝島第三小学校に夜学を設けて蒙を啓き、坑長自ら青年服を纏い率先誘導した。
 当時半島人青年一六〇余名、教養なく国語に通じなかった者も漸次自用を弁ずるに至り、その撫育に感泣した。
  作業方面では、特に作業場所を設けて懇切に指導し、賃金支払いに関しては個々別々に勘定の内容を懇切に説明し、苟も誤解の無い様に努めたので、会社を信頼する事篤く、これらに関して毫も問題を惹起した事はない。
 一面また勤倹貯蓄の要を説き家庭経済の道を教え、生活の安定を授け以って産をなさしめる事に導いたので債務を償却し、故郷に田畑を購う等、古山に錦を飾る者年々多く、慶尚南道泗川郡・山清郡地方にこれらの美談を伝え、面長より賞揚された者も幾多ある。
 昭和四年四月に偶々俵口和一郎氏が退職するに当たり、当時在坑半島人相謀り、俵口氏の恩徳を永久に報いんために頌徳碑の建立を計画し、在住鮮人二五〇余名は浄財を拠出し、同年十一月十日除幕式を挙行した。これ等は炭業を通じた内鮮融和の好例というべきである。

2)謝恩碑
 昭和五、六年の世界的不況は炭界にも深刻に反映し、遂にこの半島人の楽土の温床地にも波及し、露天掘り作業も縮小のやむなきに立ち至った。然るに社長貝島太市氏はこの半島人が異境の空で職業に離れ、不況の荒波に流浪するの悲哀を察し、同社の他坑は整理縮小するのやむなきに至ったが、半島人中よりは一名の解雇者を出さないと大いに慰撫激励せられるところがあった。そこで彼らの不安は一掃さられ安堵して業にいそしんだ。
  その後数年を経て昭和十年、遂に同露天掘り坑の規定計画部分の炭層がつき事業終了の止む無きに至ったが、半島人労働者は二十年の久しきに渉って貝島会社に仁愛恩徳を蒙ったことを深く感銘し、同地を去るに臨み謝恩の碑を建て不朽に之を伝えんとし、半島人二百五十余名同家族老若男女二百余名が一団となって建碑労力奉仕をなし、尚浄財千百五十円を拠出したので、その熱と誠意に感じて同坑関係内地人も百五十円を義損しその挙を援けた。
 この記念碑は同年十一月二十一日竣工し、同月二十四日県其の他関係各方面より多数の来賓を迎えて盛大に除幕式が挙行された。
〈上記二つの石碑(上写真)は、現在宮若市役所裏側の道路脇に並べて移設して現在に至る。〉

8、参考 出炭量等について

1)1885(明治18)年~1976(昭和51)年貝島閉山時  それ以前分は除く
 全国出炭量:2,609,786千トン(≒26億1千万トン)     日本石炭協会統計資料より
 貝島総出炭量:約1億トン
   (大之浦:7,800万トン、大辻:1,500万トン、岩屋:700万トン)
 宮田石炭記念館資料より
 貝島出炭量の全国比率 : 1億トン/26億1千万トン≒3.83%

2)1918(明治18)年~1934(昭和9)年 筑豊御三家の出炭量比較
   (畠中茂朗著貝島炭砿の盛衰と経営戦略 P33より)
  全国:521,900,133トン 全筑豊出炭量 (36.5%/全国)
  貝島: 28,925,622トン 5.5%/全国  15.2%/筑豊
  安川: 22,670,681トン 4.3%/全国  11.9%/筑豊
  麻生: 13,674,514トン 7.2%/全国  7.2%/筑豊

3)1940(昭和15)年~1955(昭和30)年
  貝島出炭量/筑豊炭田比  約9%
  貝島出炭量/全国比  1.95%
   貝島炭砿:   19,679,535トン ・・・畠中茂朗著作※資料による
   筑豊炭田: 約219,100、000トン ・・・石炭記念館資料による(概数)
   全国    1,009,512,000 トン ・・・石炭協会資料による
    注※ P134、P159
4)教科書への記載  日本の主要炭鉱 
  明治40年~大正6年の尋常小学校読本巻十二(6年生後期用)の中に、「国産の歌」の第3節に石炭の主要炭鉱として、「三池・夕張・大之浦」の 文章記載があり、他教科の尋常小学唱歌第六年用の中では、その後も長く掲載されていた。  
 ☆ 1935年段階で、三井・三菱に次ぐ規模・総資産・収益・出炭高等を誇る、我が国を代表する巨大石炭企業であった。

9、鉱害とその復旧について(充填用蒸気機関車)

 地下の石炭採掘した後に空洞が発生し、地表が陥没するのは当然の理である。
 大之浦炭は高粘結高カロリーの炭質で、貴重なコークスの原料炭として重用されていた。炭層は6層から成る累層であり、層間のボタ部分を加えると厚いところでは21mに達するところもあった。このような状況の中で地表陥没を少なくするための採掘方法として、採掘跡を土砂で埋め戻す土砂充填採炭法を考案し陥没防止減少の対策を行った。その充填のやり方は、坑外からパイプを利用して土砂を水と共に流し込んで、採掘跡に土砂を堆積させるというものであったが、作業上の安全面や使用後の廃水の坑外への排水等を含めて設備と技術は優れたものがあった。充填のための土砂材は、庄司※の眞砂土(花崗岩の風化したもの)が利用されて、その運搬のために庄司の採砂場から各坑の坑口まで、運搬用鉄道が敷設され充填汽車と呼ばれた。機関車はアメリカ製やドイツ製が用いられ、現在は宮若石炭記念館や直方石炭記念館に寄贈展示されている。(アメリカ製:アルコ、ドイツ製:ケッペル…写真:千石川鉄橋を渡る))
 その様な沈下抑制防止の対策にも拘らず、地表沈下陥落の鉱害は広範囲に発生し、農地においては収穫減に対する補償が行われていたが、閉山後は家屋農地等の復旧が行われた。たまたま貝島炭砿は閉山と共に会社消滅を迎えたので、無資力企業として国家資金による補償を受けることになり、復旧完了まで貝島職員が被害者と国の折衝役を担った。結果的には他地区の有資力企業地区よりも被害者の希望に近い復旧が出来たと思われる。
 炭坑稼働中は鉱害発生により憎まれ者の貝島炭砿であったが、立派に復旧され炭坑消滅した現在になってから、感謝の気持ちが言葉として聞かれるのも面白いことである。
※注)庄司地区の灌漑ため池の建設にあたり、地元への謝礼として建設費用を負担したことについての記念碑が建立され、今も笠置公園内の堤前に残されている。

10、参考 作家等による貝島家の記述文献

 才能に恵まれ才覚を発揮した貝島太助による粒々辛苦の成功譚は、明治大正および昭和初期においては既に広く世に知られた事であった。
 明治の文豪・森鴎外と芥川賞作家・火野葦平の作品の中に登場した2件を概観する。いずれも羽振りの良い当時の貝島家の模様を描いている。
 なお、太助・太市・嘉蔵翁の伝記や貝島炭鉱の研究論文などは多数著述発行されている。

1)森鴎外の「小倉日記」
 森鴎外は、1899(明治32)年から1902(明治35)年まで軍医監(少将相当)として小倉に在勤したが、1890(明治33)年10月5、6、7日の直鞍地区視察のため訪れた折に、宿所を貝島邸としている。
 この間の日記記述は、太助・栄三郎との対面や邸内の豪勢華美な造りや美術品、太助の生い立ち苦労成功の模様などを、他の日にちに比べて多数の文字と紙幅を費やしている。
 また、鴎外は福岡日々新聞に寄稿した「我をして九州の富人たらしめば」という文中に、鴎外が直方駅から人力車で福丸に向かおうとしている時の模様を描いている。この時の車夫の冷たい応対から、「官員鴎外」とチップも弾む羽振りの良い石炭成金の住む地域の気質の違いを、まざまざと悲哀や怒りとして感じた事も記述している。

2)火野葦平の「馬賊芸者」
 博多芸者の別名として、「馬賊芸者」とも称されていた。この名前の発生のもとになったのが炭坑王貝島栄三郎にあるといわれる。芸者3人を連れて汽車旅行中に、炭坑王の懐中から紙入れをとりあげ、食堂車でさんざん食べ飲みあげた。さすがの炭坑王もこれには呆れて、「お前たちゃ馬賊みたいだ」と言ったのが始まりというが・・・。
 (火野葦平の小説「馬賊芸者」では、東京で病床にあった貝島太助を見舞うため、上京した芸者3名がお礼に東京見物をさせて貰った時に、案内役の栄三郎から財布を巻きあげてしまった、という事になっている。)
 火野葦平の「馬賊芸者」は、もちろん 小説であるから真実ではないにしても、富裕名士となった太助の子息栄三郎をモデルにしているようで、「馬賊芸者」の女主人公の悪役側の人物として描かれている。時代考証すれば栄三郎の時代ではなくフィクションであるが、富豪の代名詞として貝島家が世間に目されていた事は間違いない。

 3)吉村誠著「偉盲 貝島嘉蔵翁伝」
  本書は福岡盲唖学校の第三代校長(1914~1924)を勤めた人の著作。
 24~5歳で病気失明した貝島嘉蔵の、失明前から失明後の炭坑経営での才腕発揮振りや教育面を含めた社会貢献と慈善事業、さらに政治の世界でも大きな影響力を発揮するなど、貝島太助を支え貝島財閥の基礎創りに大きく寄与した嘉蔵の伝記である。読書家でもあり、「強記にして一度読過したるものと雖も久しく之を忘れず」と記述し、才能豊かな行動力のある人柄がわかる。

11.1、参考 貝島炭砿の歴史的概観
1)創業 1885(明治18)年 11月3日に一族招集協議にて決定 11月15日着手
     (創業以前には各地で操業、失敗苦難を重ねたのち大之浦誕生)
・栄鉱社 1889(明治22)年~1891(明治24)年 外部出資者(鉱区名義者)あり
    単価下落、鉱区買収、貝島豪邸建築等により井上馨援助にて三井経由毛利家からの融資。
鉱区を太助名義にまとめて担保として三井に渡し、三井傘下の採掘請負人となる
・貝島鉱業合名会社 1898(明治31)年 貝島一族出資
                   1896 太市と鮎川フシ(井上馨の姪)と結婚
  ※1896(明治29)年日清戦争勝利好況にて毛利家への負債完済鉱業権回復
  ※1901年出炭量644千トン /筑豊炭13% /全国炭7% 
  1900年初頭において全国11位の会社規模を誇った
  以上:畠中著書P25 経営史学会編「日本経営史の基礎」P444
○貝島鉱業株式会社 1909(明治42)年
                10月15日 貝島家家憲制定 井上馨発意 
 1916年太助死去
○貝島商業株式会社 1919(大正8)年創設 20年から貝島炭自家販売(三井から独立)
○貝島合名会社   1919(大正8)年創設・・・貝島家一族の共同事業を統括の他に当時の社会一般の持株会社設立での租税対策面もあった 
   ☆ 3社体制で多角化に向けてスタート
   業容拡大による有能人材採用陣容充実 (1950年解散 この間太市が代表者)

2)1926年の系列会社
                貝島鉱業       ※(貝島合名は1950年解散)
                貝島商業
                大辻岩屋炭砿   
貝島合名※   直系会社    貝島木材防腐
                貝島乾溜
                貝島石灰工業
                貝島林業
傍系会社    中央火災傷害保険
P96
3)直方から下関市唐戸へ本社移転 1920(大正9)年  
移転理由:                              畠中p71~
① 大陸進出機運の高い当時では、下関は大陸への玄関口として日本での枢要な地であり、交通・通信手段の向上を勘案した。当時下関には欧米諸国の商社支店や銀行支店があった。
 (1931年8月からは、英国スコットランド系商社ジャーディン・マセソン商会支店であった赤煉瓦3階建てビルを買収使用。市内でも目立った建物で御三家の雄貝島にふさわしいものであった(左写真)。J.M.社との結びつきは井上馨によると思われる)
② 石炭の関西関東方面や近海への船舶輸送上の利便性と遠洋航海向け汽船は下関を船籍港としており、若松港での石炭積み替えにも便利であった※。
 ☆主要販売先が瀬戸内海から関西方面であったし、安川麻生等競合他社との競争を有利に展開していくための拠点としたかった。・・・マイケル・E・ポーター著「競争戦略論Ⅱ」
③三井から販売権回復後、J.M.と手を組み中国市場進出を企図し、また新たな事業展開を図った結果かとも思われる。(安川は1940年東京へ)
 参考 ☆1928年ころの貝島所有船舶: p72
  37隻(汽船 12、帆船 25)総トン数 7,787トン(最大2,417トン~最小8トン汽船)
☆1928年の若松積出実績
  総量1,070,408トン (汽船 625,541トン 帆船 407,889トン その他 36,978トン)
 (若松港からの積出量は御三家中常にトップであり、若松築港にも関与した。  p254)
③ 太市の思い入れも?
 本社のビルの好条件のほかに、恩人井上馨や妻の出身地、邸宅は毛利家重臣跡、別邸は維新時の前田砲台の遺跡など太市の好みともマッチしたであろうし、更に筑豊の一世代前の同業他社面々から距離を置く土俗的血縁を離れの考え※もあったとも推測される。※永末十四雄氏 他
 (現在は、貝島邸※は30軒以上の住宅地となり長府前田別邸跡は中電の社宅地。旧貝島邸一角に貝島公園と摂政の宮-のちの昭和天皇-の行幸記念碑-太市建立-あり)
   ☆梨本宮守正王との知遇を得ていた。 ※1922(大正11)年直方太市邸を移築

  ☆参考 日の本神社
  1936年に長府貝島邸に明治天皇の像をご神体として創建し、現在は赤間宮隣接の大連神社の社殿として移築されている。当時神社内にあった太市像(北村西望作)は大之浦神社に移設された。
 一介の炭坑夫から功成り名遂げた貝島にとって、事業を通じて皇室との繋がりと国家=天皇に奉仕する皇道精神の顕われと思われる。
P241
 ☆敬神崇祖 忠君愛国 国家への滅私奉公 貝島精神
・・・貝島学校 病院等の福利厚生施設運営 との関連?

4)関連企業の推移状況
○大辻岩屋炭砿株式会社分離独立 1921年
 急激膨張組織整備 安全統御対策(1917年桐野二坑爆発事故反省)

○貝島木材防腐株式会社 1923(大正12)年 九州木材防腐株式会社譲渡受けまた
            1931年解散
○貝島乾溜株式会社 1925(大正14)年  大阪
○貝島石灰工業株式会社1925(大正14)年
           上の2社は1931年貝島化学工業㈱に統合
○貝島林業株式会社 1925(大正14)年
           1927年解散
○中央火災傷害保険株式会社1912(明治45)年設立後1922(大正14)年貝島系列に
          
5)貝島炭砿株式会社再編設立 1931(昭和6)年 
   ●貝島炭砿㈱     貝島鉱業㈱
              貝島商業㈱
              大辻岩屋炭砿㈱
   ●貝島化学工業㈱   貝島乾溜㈱※
              貝島石灰工業                 
   ●中央火災傷害保険㈱・・・1937年に日産系企業に譲渡

  ☆その後 大辻岩屋炭砿分離、満之浦坑、二坑、五坑、新菅牟田坑は各第二会社分離閉山を経て、1976(昭和51)年 露天掘りにて筑豊最後の炭砿として貝島炭砿終焉
※注 類似関連:太助の創設による筑豊骸炭製造合資会社(のち三菱へ売却)は、北九州において地元資本による近代化学工業の出発点となり、現三菱化学黒崎事業所の淵源である。   P40

6)貝島財閥への頓挫
 大正後期から昭和初年にかけては貝島合名を中心に財閥型企業組織を整えて、貝島財閥
に向けて大きく歩みだした時期であった。しかし、昭和恐慌やそれに伴う産業合理化嵐の
中で、貝島合名のもとに3社のみを有する企業グループに再編されて、戦時統制が私企業の
自由な発展を阻んだこともあり、貝島の財閥化頓挫することになった。
 ちなみに1928年の払込資本金は三井がトップで、古川財閥に次ぎ第9位である。 P112

7)「貝島銀行」の夢 
  日露戦争後の未曽有の利益をもとに、1907年ころ「合名会社貝島銀行」設立が具体化していたが、石炭業以外の事業進出に反対していた井上馨の意向で断念せざるを得なかったと推察される。
(名称:合名会社貝島銀行、資本金:50万円、出資者:太助、六太郎、嘉蔵、太市)畠中p31

8)歴代社長
  貝島 太助  1909.12~1916.11 (明治42年~大正5年) ・・・貝島鉱業
  貝島 栄四郎     ~1931.8 (昭和6年) ・・・・・・・・ 貝島炭砿
  貝島 太市 ~1943.6 (昭和18年)
  貝島 義之 ~1945,10 (昭和20年)(会長:太市)※
  貝島 太市  ~1963.5 (昭和38年)     45年本社移転
  貝島 弘人 ~1976.5 (昭和51年)
 ※注 太市は貝島合名に専念し、炭砿会社の運営は義之が中心になっていくというもので、  軍需会社法との関連もあった。当時の貝島合名の傘下には、貝島工業㈱の他に、貝島燃料工業㈱と中野精機㈱があり、太市は炭砿会社を含めてこれらの企業の買収や運営に専念するために会長職に就任したものと考えられる。・・・p179 55)

9)本社所在地
創立時  直方
1920年 長府(空襲にて唐戸消失し社長邸へ)
1945年 宮田町 大之浦本社   福岡市平尾に事務所
1946年 福岡市荒戸128 
  ?  福岡市天神協和ビル 

10)貝島家家憲について
 1909(明治42)年 井上馨侯発意により麻布内田山の井上侯邸において制定。
 明治の3家憲 (毛利、三井、貝島)と言われる
   宗家:太助、本家:六太郎・嘉蔵、 連家:太市・亀吉・定二・永二・百吉・シゲ
   起草者は有賀長文(団琢磨女婿)と原嘉道(法学者のちの司法大臣)
 三井家を参考にした内容になっているが、井上馨の顧問としての権限が大きい内容になっている。
 家憲には、石炭専業特化についての記載はないが、井上馨の意向は石炭産業中心に専念する
 ことが望ましいとする気持ちがあった。(一族の同意を得て決定するよう規定あり)
 太助は多角化の軌跡があるし、鮎川儀助は太市とともに経営多角化を目指していた様子がうかがわれる。

11)保安面について  「ご安全に!」 のルーツ
 1917年の桐野坑ガス爆発事故(死者369名)等の労働安全の反省や生産性向上の面からも、保安部の新設を行い保安に努めた。以降の死傷者の統計でも他社に比して好成績を上げている。
  1932年からは保安・出炭能率等の成果に応じて、社長からの優勝旗授与規定を制定している。

  ☆ 現在全国の工場や工事現場で交わされる「御安全に!」という挨拶のもとになったのは、この時期に太市の防災の志を徹底させるため、礦務部中村勝鹿副長の提案した言葉「御安全」であり、またたく間に筑豊各炭鉱で常套語となり、現在では全国の工業界に遍く広まり定着しているのは誇らしいことである。  P178・・・社史原稿

12)太市について
  炭価安定、企業間過当競争抑制のため太市は率先して設立に中心的立場で動いた。
 ☆ 甲子会 1925(大正14)年 三井・三菱・安川・古川・貝島 のち麻生
 ☆ 昭和石炭㈱ 1933年(昭和8年) 設立
 1940年日中戦争による石炭配給統制法施工で半官半民の国策会社(日本石炭㈱)移行で解散

  ☆1947年日本石炭鉱業会の会長就任、1949年 経団連評議員就任
(写真:宮若市天照宮内の大之浦神社にある貝島太市像)

12、まとめ

 石炭産業の揺籃期である明治10年代においては、宮田地区でも十指にあまる多数の零細規模の炭坑が、坑区を申請し割拠稼働していた。その中で貝島太助は、雌伏困難時代の独自体験研鑚習得の技術や、才能才覚を発揮して採掘に伴う地下水排出処理に動力を利用するなど、他に率先して時代の先端を切って蒸気機関設備の設置や発電所を建設して稼働させ、斬新な技術面の開拓で経営合理化をすすめる一方、政府農商務省の方針としての坑区撰定令に適合すべく、近隣坑区の摂取買収を果敢に行った。その結果として、宮田地区は往時の一寒村から脱皮し、貝島炭砿一社の経営する纏まった地域経済圏を形成する事が出来、その後の行政にも大きな利便性を与える事に繋がった。商工会議所や保健所の開設などはその良き例証である。
 なお、坑区は宮田地区以外にも、香月、新入、植木、鯰田、嘉穂大分、潤野、佐賀県岩屋、遠賀水巻、桂川、長崎県松島、等にも広がり、交換譲渡の経過を経ており、それぞれの歴史にも見解があるようである。戦時中には中国井陘炭砿も経営していた。また宮崎日南の地下ガスの採掘のため坑区を得て、ボーリング調査も大々的に行ったが、採算ベースに乗るほどのガス濃度が確認されなかったのは残念なことであった。
 但し明治時代にこのように坑区拡大や機械設備投入、私学経営等のためには、莫大な資金を必要とするのは当然であったが、資金調達のためには候爵井上馨の力に負うところが大きかった。
 これは介する人(柏木堪八郎)があり井上候との知遇を得て、毛利家や三井家の資金的裏付けが出来た結果の成果であるが、三井家の当初の姿勢は貝島太助を一介の坑夫上がりの山師として考え、出資を見合わせるほどであった。しかし井上候の貝島太助を見る目は、将来の盛運を見越した人物として捉えた。即ち、朴訥ながら事業に対する熱意と知識経験才能に富み、高義任侠に篤く品性清らかな大きな器量人であると。三井との取引に当たっては、融資見返りに石炭販売権の譲渡等の貝島にとっては不利な条件も付きまとい苦労も大きかったと思われるが、それを乗り越えての地方財閥誕生であり、その後の発展につなげた。このような一族兄弟の才能と事業への研鑽努力は世の称賛に値するものであって、太助の弟で盲目嘉蔵の数々の義挙功績は、当時書籍出版がなされたほどであり注目すべきである。
 なお付言すれば巷間伝わるように、貝島炭砿は家憲により石炭産業にのみ特化したものではなく、コークス工場や化学関連産業や林業産業開始、銀行設立計画、保険会社運営等も行い、多角経営への道を進んだ時期もあったのである。現在も貝島育英会を継続運営中の貝島化学工業㈱はその折の設立で長い歴史を誇り、また現在の興亜損保ジャパンは、中央火災傷害保険として貝島炭砿の傍系会社経営を経て、日産に引き渡されたものである。
  以上概観してきたように、資金的に非常に厳しい時期にあっても、私学設立をはじめ学校教育および地域や社会貢献に取り組む献身的な姿勢と石炭産業界をリードしてきた貝島一族の実績は、当時の他企業人に比すべくもない並々ならぬ姿勢であり、後世に語り継ぐべき地域の誇りである。それを伝え顕彰することは現代のわれわれの責務であると考える。
 また崇神敬祖と仁を重んじる社風を社内に伝えていたが、その様な創業者の精神が脈々と流れ、その後の各種貢献活動の基礎にあったものと思われる。
 明治日本の産業を支えた遺産群が、世界遺産として炭鉱遺跡も登録されている現在、多大の貢献をなした貝島炭砿関連の名前が無いのはまことに惜しく寂しいことである。今こそ現存する遺構はもちろんのこと、その功績を含めた歴史を残すことが創業者に対する敬意の表現であり、当地の歴史を語り未来を展望する上での必須事項であろうと思う。
 



 
 〈背景写真:山荘竹林〉○