「講演」 貝島百合野山荘の保存と活用について     

 日時:令和4年(2022)6月25日(日) 10:00〜11:40 
会場:マリーホール宮田(宮若市)

本講演記録は、本山荘が国指定重要文化財に向けての資料となる貴重なものととらえています。
また、講演講師 田上稔氏はじめ、多くの方々のお力と熱意の結晶でもあると考えます。
なお、本ページ作成に当たり、講演の田上氏、貝島化学工業辻氏、柳川藩主立花邸 御花関係者に
本HP掲載のご承諾を得ています。(HP作成担当


目    次
 まえおき         
 これまでの取り組み     
 Ⅱ  建造物調査     
 Ⅲ  庭園調査    現在まだ調査中であります。
 Ⅳ  保存と活用にむけて     
 ・  資料提供先     

 ス ラ イ ド  講演記録
 
【スライド1】
  貝島百合野山荘の保存と活用について

・福岡県教育庁文化財保護課の田上です。

・今日は、皆さんも日々取り組んでいる、「貝島百合野山荘の保存と活用について」というタイトルで、庭園と建物の調査の中間報告をします。

 

【スライド2】
  Ⅰ これまでの取り組み


・まず、貝島家住宅(百合野山荘)のこれまでの取り組みを振り返ってみます。

 補足:近代和風建築総合調査について 

・私共、文化財保護課が業務として百合野山荘と直接、関わったのがこの「近代和風建築総合調査」です。

・江戸時代に大成された日本の伝統建築が、明治時代になって独自の発展を遂げて、バラエティーに富む和風建築が作られるようになる。それらを対象にした調査が、「近代和風建築総合調査」です。

・福岡県教育委員会では平成27~29年度にかけて近代和風建築総合調査を実施しました。市町村から436件の推薦、119件の物件が報告書に掲載されています。

・百合野山荘は住宅Ⅰの炭鉱関連(炭鉱経営者の住宅)の中に含まれていて、旧伊藤邸、旧蔵内邸ともに福岡県を代表する和風住宅として、保護すべき文化財であると調査委員会が評価しています。

・明治期以降の和風建築は(主に木造です)江戸時代に完成された伝統技法をもとに、それまでのルールを逸脱したり、創意工夫によって、バラティーに富む和風建築がつくられるようになりました。神社、寺院、民家などで擬洋風もその一つです。

【スライド3】
  庭園・建造物の調査が始まる


・貝島化学工業内に百合野山荘の保存を検討する組織が設置され活動が始まります。

・また、県の調査は建物に限定した調査でしたが、庭園にも価値があるとの文化庁の助言によって、貝島化学工業が予算を組んで庭園・建造物の調査事業が始まります。

・調査がやや先行して令和3年1月に始まり、調査委員会が同年2月26日から始まりました。令和4年5月に第3回目が行われて、調査成果が集約されつつあります。

・同時に「市民の会」によるボランティア活動によって清掃が行われます。 
 
【スライド4】
  市民活動:ボランティア清掃活動と見学会

・市民の会有志の方々に参加していただき、建物の掃除、雑木の伐採、池の浚渫と草取りが行なわれています。

・文化庁の調査官に見ていただいた際に、建物室内に荷物がたくさんあり、埃を被っていて、いい建物なのに価値が見えてこない、という指摘をうけました。

・それと、庭園に木が茂っていて、池の石組みが雑草に隠れたり、土に埋もれていたら調査実測できないとのことで、当時の関係者で対応を検討しました。

・その結果、ずいぶん多くの方に参加いただき、このような状態まで回復できました。調査だけでなく、見学会もできるようになりました。
 
【スライド5】 
  整備前後の状況


・清掃してきれいになると過去の状態を忘れがちになります。清掃前後の状態です。

・石燈籠周辺を見ていただくと分かりますが、樹木の密度がまったく違います。

・下が池の護岸ですが、浚渫と草刈り・伐採で石組がくっきり浮かびあがっています。
   
【スライド6】
  Ⅱ 建造物調査


・では、建造物の調査報告に入りたいと思います。

・貝島家住宅・百合野山荘の建物は「書院造」と呼ばれる江戸時代から続く上級武家の住宅建築の流れを引くものです。百合野山荘の理解のために「書院造」について、建築の歴史を整理して触れておきたいと思います。
 

【スライド7】
  書院造の成立 


・書院造の始まりは寝殿造に遡ります。寝殿造が平安・鎌倉・室町時代を経て、信長と秀吉が活躍した安土桃山時代に書院造として発展し、その原型ができあがります。

・この図は「主殿」と呼ばれる建物で、二列の部屋が並んで、南側に接客空間があり、上段の間の片隅に床・棚・書院といった座敷飾や帳台構が配置されていることが分かります。現存する園城寺光浄院客殿(1601・滋賀県)には、床の間と違い棚があり、一般的な和室の座敷に見られるような床構えをしています。

・簡単に言いますと、床の間がある立派な座敷が書院造ですが、床の間の脇に張り出した小部屋があり、上々段の間と呼ばれます。桃山・江戸時代の本格的な書院造にはよく見られます。この小部屋は実際にはあまり使わないそうです。百合野山荘の本座敷奥にもあり、出書院と呼ばれています。

   

【スライド8】 
  書院造の完成 二条城二ノ丸御殿


・江戸時代に入り社会が安定します。将軍と大名は自らの屋敷の整備に尽力します。

・また、将軍と大名、大名どうし、大名と家臣で頻繁に客を招いて饗応を行うようになり、その際の作法と接客空間のあり方が武家社会においてルール化されます。

・いずれの建物も上段の間を頂点とする、空間的な序列と床等の座敷飾りを持つこと が特徴です。書院造と言えば二条城二ノ丸御殿が有名であり、江戸の初期(1603年)の建築で最高傑作です。

・この断面図のように、床の間と座敷飾がある上段の間を頂点として、床が一段ずつ高くなり、天井が格天井→折上天井→二重折上天井と仕上げのグレードがあがることが書院造の大きな特徴となっています。
   

【スライド9】
  書院造の近代化


・1867年の終わりに幕府がなくなり、1868年1月、明治時代がやってきます。

・明治4年(1871)廃藩置県で、藩と大名と侍という関係が完全に解消され、書院造が大名や上層の武家に限定した住宅建築という封建的な関係が壊れます。その結果、明治期になり本来の施主を失った書院造にも近代化の波が訪れます。

・しかし、書院造という様式が消えてなくなる訳ではなく、伝統的建築様式である書院造は存続して、皇室・皇族や明治期に財をなした富裕層を施主として存続します。
〇洋館が主役の時代:明治前中後期

・ここで明治前中期における、資産家の住宅建築をみてみます。

・彼らの住まいは、一つの敷地に洋館と和館が並立する形式をとり、洋館を前面に出して接客用の迎賓館とし、和館の書院造を生活の場として利用していました。

・洋館は文明開化の象徴で建築家が設計し、和館は封建時代から続く身分と空間的な 秩序を示すもので、大工が直接造営するものでした。

・洋館は表に、和館は裏手にあってつつましく建つという全般的な傾向がありました。
〇和館が大邸宅の主役へ:明治後期〜昭和前期

・明治中期頃まで和館は裏手に建てられる傾向にありましたが、日露戦争以降、和館の建物規模は大きくなり、表に建てられるようになりました。伝統への回帰です。
・また、和館は本来の接客用の用途を回復し、書院造の伝統的様式を基調としつつ創意工夫が加えられて近代的な書院造が建築されるようになります。同時に、迎賓機能が和館へ移って、住宅の中心に位置するようになります。

・中島飛行機製作所を経営していた中島邸の客室です。元宮内省匠寮技師の設計。
・旧蔵内家住宅をはじめ福岡県の大規模住宅も大正時代に入ると和風意匠を前面に押し出して自らの邸宅を書院造で表現するようになります。

 

 【スライド10】
  讃井傳吉、百合野へ


・話を百合野山荘の建物に戻します。

・立花家が柳川城下の御花に邸宅を営み、大造営を明治40年代に行います。そこでは、博多大工の讃井さぬい傳吉が洋館と大広間の建設を任されました。

・その仕事が終わり、間もなくして貝島家住宅の造営を請負い百合野にやってきます。

・百合野山荘の建築にあたり、讃井さぬい傳吉と貝島家は大正2年に請負契約を交わし、建築群は大正5年に竣工しました。
   
【スライド11】
  貝島家住宅・建築調査


・建物は有明高専の松岡先生が担当され、実測等の作業は既に終えています。

・また、建物調査の一環として、住宅に残されている資料の整理と調査が行われており、新たな資料の発見があっています。なかでも、讃井傳吉と貝島家との請負契約を元に作成された各建物の設計書と仕様書が見つかっている点は、建物の文化財的な価値をより高めるものとなっています。

・百合野山荘の建物群は、庭の計画に合わせて各建物の配置計画を考えた書院造ではないかと推測しています。格式張らず、近代化した書院造と評価しています。

・ちなみに、当時の貝島家住宅の格式を象徴する「毛利門」ですが、移築当時は大正3年の「総勘定元帳」では「川棚門」と呼ばれていたようです。
   


【スライド12】
  平面構成にみる使われかた


・当時の建物の具体的使われ方は、日記やスナップ写真などの記録がないので、建物の間取り庭園や残されたものを根拠に推測するしかありません。

・来客にはフォーマル、セミフォーマル、プライベートがあって、来客の性格によって使用する部屋が異なってきます。いくつか想定してみました。

・動線①は御主人の知り合いがやってきて、玄関から洋館に招いてお茶をしながら、ひと時を過ごす場合の動線です。一番、利用頻度が高いのではないでしょうか。

・動線②貝島一族の集まりや中央の資本家らが来訪すれば、最も格式の高い本座敷に招きます。普段、本座敷は清掃をするぐらいで主人も個人的には使用しません。

・動線②の続きで、本座敷を利用する宴のあとは、客は茶室を利用しますが、室内にある水屋は通らず縁側や躙り口から出入りします。本座敷縁側南から出て、露地園路を通って腰掛待合で順番を待って茶室に入ったようです。

・動線③もし江戸時代だったら、賓客は中門を介して本座敷縁側から直接あがります。
 塀と中門の跡が残っています。書院造では必ずセットになっている重要な要素です。

・家族による普段の利用は式台玄関から西側の空間に限定され立入りもしません。

・毛利門です。なぜ、屋敷入口の門を大正期に新設せず、江戸期の三間一戸の薬医門を移築したか。①単にもらったから、②書院造の屋敷の門としての伝統的格式にこだわったから、という二つの仮設を考えています。

   【スライド21・22】 
  貝島家住宅の文化財的価値1


・まず、庭園・建造物調査のまとめからです。当初、文化財の調査は建造物に限定しアプロ―チだけでした。(左の模式図)庭園調査が始まり、評価される対象は、これだけの広がりを持つようになりました。

・調査の成果を踏まえ、私ども感じる文化財の魅力と評価を右と下に整理しています。

・藏内邸、伊藤邸と比べてみても三者三様で、貝島家住宅は増築を行わず、計画的に建設されていること、書院造という和風への回帰が明確であること。

・何度も繰り返しますが、そもそも庭園と建物は同時期に一体的に作られていて、建物は庭を見せるためにあるような配置をしていることが評価されます。 
 
   【スライド23】
  貝島家住宅の文化財的価値2


・庭園と建物の調査だけでは、住宅の魅力と文化財的な価値は伝わりません。貝島家に残される資料や歴史を紐解き、文化財の評価に繋げることが大切です。

・今後のお願いですが、庭園は草と樹木が繁茂すると鑑賞物としての価値が半減します。草刈りと剪定でいつも小ぎれいで綺麗な状態にしてあげてください。

・建物については、痛んだ部分の補修は今後の課題となりますが、定期的な換気を怠らず、室内外の掃除をしてあげてください。

・そうすることで、文化財の価値はどんどん見えるようになります。
   

【スライド24】
  保存・活用のこれから


・今年度の終わりに文化財調査報告書が刊行され、来年度以降、百合野山荘が国の指定を受けて保存活用が順調に進んだという前提に立って作成した図です。矢印左側が現在、そして右側が将来です。

・令和5年以降に指定を受け、所有者の協力により修理と整備が進められ、公開を始めとする地道な活用が行わることを期待します。

・今の状態では一般公開は難しいので、これらからも庭園・建物管理と清掃を継続してもらい、建物修理と庭園整備をきっちりやることが、あるべき道のり、百合野山荘の幸せな将来ではないでしょうか。

・市民の会の皆様方には、これからも百合野山荘に愛情を注いでいただければ幸いです。


   ●資料提供

・貝島化学工業株式会社内 百合野山荘調査・分析スタッフの会

・株式会社 修復技術システム

・株式会社 河上建築事務所



背景画像:邸宅敷地内からの毛利門を望む