貝島家憲制定の経緯とその後
 
 
  
 明治の三大家憲のひとつ「貝島家家憲」制定式がおこなわれたのは、明治42年10月15日、東京府麻布区鳥居坂の井上馨侯爵邸の大広間でした。

       写真:於麻布鳥居坂井上馨邸 貝島家家憲制定記念写真 前列中央井上馨と妻武子
                         
「秘蔵写真で語る・貝島炭坑の物語り」(福田康生著)から
 
 明治の三大家憲とは、毛利家、三井家、貝島家三家の家憲です。
 その一つ、「月島家家憲」は、ききに井上馨が手がけた毛利家、三井家家憲を参考に、
(貝島太助も功なり名を遂げたうえは、守成をはからねばなるまい。一族共同事業のきまりと利益の配分、そして太助の兄弟間にはたまた子孫のあいだに、もめごとが起こらぬよう、今後とも一族が和気諾々のなか力をあわせ共同事業の発展につくすことができるよう、貝島家の顧問たるわしが月島家の家憲をつくらねばなるまい。) 
 という、井上馨の肝入りで制定されたものでした。

 貝島家家憲制定式の列席者は、貝島家の大恩人井上馨侯爵、同夫人武子、井上馨の養嗣子で外交官の井上勝之助、毛利家、三井家、そしてこの度の貝島家家憲を起草した有賀長文(団琢磨の女婿、三井合名理事)、同じく起草者の原嘉道(法学者、昭和二年田中義一内閣の司法大臣)、柏木勘八郎(大之浦炭坑創業以前からの太助の後援者)、貝島太助、貝島六大郎(太助の次弟)、貝島嘉蔵(太助の三弟上 貝島太市(太助の四男)、貝島亀吉(今は亡き太助の長弟文兵衛の娘エツの婿養子)らで、貝島家一族こぞっての状況でした。それは、上写真にしっかりと収められています。
                         以上の出典:「秘蔵写真で語る・貝島炭坑の物語り」p52

 家憲の内容は公表されていませんが、貝島家の家憲の草案が宮田町の石炭記念館に残っているます。
 その一部を紹介しましょう。
 前書きとして
 「貝島家、素より微賤に起こり、数々困厄を経て百折不撓遂に今日の隆盛を致したるもの、蓋し太助の苦心百端、備さに艱難を嘗め、造次(束の間)てん沛(つまずき倒れること)一家の興隆をこれ企て、而して其弟某々克く之を補佐し協力同心一族挙つて奮勉事に當りたると、侯爵井上馨殿へ輿へられたる内外援助の効に職由せずんばあらざるなり。今や財産の基礎漸く成るに當り、一族子弟家運の此に至れる所以を忘却し、驕奢安逸に流れ、家聾を失墜するに至る事なきを保せず。是に於いてか、其々相諮り、侯爵井上馨殿に懇情し、厳重なる家法を制定し、財産の鞏固と一族の繁栄とを期し、永く之を以て子孫家を治るの規矩と為さんとす」
 と、家憲が制定された経緯が書いてあります。
 
 この家憲の中に、
「一族は一族会の許可なく、一族共同事業以外の事業を経営すること」を禁じ
また
「他の会社の株主となり又は一族共同事業以外の事業に出資すること」も禁止した一項があります。

 この規定が、石炭の斜陽化をいわれても、見島炭鉱の手足を縛っていましたから、石炭以外の事業に手が出せず、「筑豊の御三家」 といわれた貝島炭鉱は、安川製作所・黒崎窯業や麻生セメントのように生き残ることができなかったのであります。

                以上の出典:「貝島太助物語」(福田康生著)〈http://fujihistory.sunnyday.jp/〉

 なお、本家憲は、終戦後間もなく昭和26年、貝島太市社長時に廃止された(法政大学学術機関リポジトリ「地方財閥形成者 115」.p5 .2011)から。(本HP作成者から)

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○貝島家憲にかかわるWEB資料紹介
 「井上馨と貝島家家憲の制定」 福田康生 2013.3.22 (九州大学学術情報リポジトリ)「貝島家 家憲」全文が記述されている。


 背景写真:充填汽車コッペル





  
 
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